地震、火山噴火、台風、大雨etc..
近代は以前と比べても天災が多くなっているそうです。
(内閣府HPより)
「人類の勝手な振舞いに地球が怒っているんだ!」そんな危機感を伴った叫びもありますが、前回の記事で書いた通り地球は生きていませんので怒ってもいません。
じゃあ気にしなくてもいいかって訳ではもちろんありませんよね。
人類が行った事が原因で引き起こされた災害も多数あります。
人類の活動が自然破壊へ繋がり、崩れたバランスを整えるフィードバックの結果として気候変化の規模が大きくなってしまい、我々が被害を受けるようになります。
温暖化でゲリラ豪雨が降ったり、台風が強大化、増加しているのはそのせいだと言われていますね。
戒めとして怒っているという表現を使う事で、自然破壊をしないように気をつけるならばいいのかもしれません。
でも感情を入れてしまうと正しい因果関係が見えなくなる危険性があると思うのですよね。
「因果」とは仏教用語ですが、それは「原因があって結果が生じる」というごく当たり前の自然法則を示している言葉なのです。
そこに「自然が怒っている」「天罰が下った」という超自然的、非科学的な考えが入ってくると一気に宗教臭くなってしまい因果関係がぼやけてしまいます。
原因を見失ったらその対応も間違った事になってしまうでしょう。
「この災害が収まる様にお祈りしましょう」「収まらないとしたら信仰心が足りないんだ!」「生け贄がいるのかも」「いやこれは神の試練だ。ただ受け入れよ!」「異教徒を排除しろ!」みたいにね。
そうではなく「 AをしたらBが起きた。じゃあAをやめよう」それが正しい因果の見方です。
まあ「因果応報」がもはや宗教的発想によって、今では天罰が下るという意味で使われてしまっているのですが。(仏教って宗教じゃないの?って話は今回は置いておく事とします)
ところで前回は「地球は生命のよう」ではなく「生命が地球のよう」なのだとお話ししましたが、感情でもまた同じ様な主張が成立してしまうと思います。
それは「地球が怒っている(感情がある)」のではなく「生命は地球(自然)のフィードバック機能を感情という働きによって保持している」という事です。
例えば、身に危険が迫った場合には恐怖を感じますよね。
恐怖を感じたならばそれから逃れようと行動を起こします。
恐怖という感情が生存活動としてのフィードバック機能として働いたという事になります。他の感情も全てそうです。
感情とは生きる為のプログラムなのです。
もしあなたが普段の生活の中で怒りを感じたとします。
そこで発生した感情に流される前にこの事を思い出してみて下さい。
「今私は怒りの感情を抱いている。感情とは生きる為の機能なのだ。だがこれは自分の命に関わる程重要な事だろうか?」と。
でも日常で命に関わる様な事はそうありませんよね?そう気付いたなら無駄に怒る必要はないとわかります。
私たちは本能的に生きる事に強く執着しているので、感情が自動的に過敏に働いてしまうのです。
だからちょっとした事でも怒りを感じるようになっているのです。
だからカフェの店員の態度が悪いとかで怒る人は、それで「やばい死ぬかも!」と思っている論理性のない超絶ビビリなのです。
感情は生きる為の本能的プログラムなのだと理解すれば、感情を観察する事で問題が見えてきます。
問題が見えたならば解決策、工夫が生まれて物事を上手く運ぶ事ができるようになります。
そしてその冷静な視点は理性から生まれます。
外的事象に対するフィードバック機能は感情ですが、感情に対するフィードバック機能は理性なのです。
感情は簡単に刺激されるので、お金儲けや悪巧みを狙う人々(もしくは無意識の内に)によって世間にはそういった物で溢れていますが、そのまま流されず踏みとどまらなくてはなりません。
動物は本能のまま生きていますが、必要以上の事は同じく本能によってストップされています。
そうやって環境を大きく変えない程度の資源を取るだけにとどめる事によって、自分たちが生きていく環境を保っています。
人間は本能が弱まったせいで欲望を程々の位置でストップできなくなりました。人類の行動で自然破壊が進み、その結果が災害という形で返ってきています。
生存の為のプログラムであるはずの感情の赴くままに生きると、人間は生きにくくなるという矛盾が生じています。
しかし我々人類は本能が弱まった代わりに理性を獲得しました。
感情は古いプログラムなので、進化した人間はそれより新しい理性というプログラムの生き方にバージョンアップしなくてはなりません。
PCやスマホも古いOSのままでは不具合が出ますよね。
人間を人間たらしめるのは理性であり、理性なきは人にあらずなのです。