サッカーW杯で日本が負けても落ち込まない方法
今回のW杯で日本がブラジルに負けて敗退したとのことです。
かなりいい成績で期待も大きかったために落胆した人も多そうです。
ではここで落ち込まない方法をご教授しようと思います。
まずは日本代表戦しか見てなかった、この後の試合はもう見ないという方向け。
・今後ずっと日本の代表戦を見ない
あなたはサッカーファンではありません。最初から見ないことをお勧めします。
そうすれば悔しくもないし寝不足にもなりません。
別に日本代表戦だけ見てもいいじゃんという方向け。
・日本の社会を知る
日本チームが好きで何が悪いんだ、自国を応援するのは当たり前という人もいるでしょう。
「でも日本には大谷がいるし。大谷応援しよ」って言うともっとポイント高いです。
別に日本が好きなのは悪いことではありませんがあまりに社会が見えていないと思います。
日本という社会を知れば(まあしょうがないか)という感じで気楽に受け止めることができます。
僕は日本のサッカーの強さに納得ですし、今後そこまで強くなることもないだろうと考えています。
それはなぜか。
まず日本は世界でも人口が多く、裕福な国です。
皆んな部活をやってきましたし、レジャーが好きでそれぞれ趣味を持ちスポーツも色々嗜んでいます。
その結果日本は色んなスポーツがそこそこ強い国になっています。
サッカー、ラグビー、バスケットボールはプロリーグがあります。
その他にも格闘技や世界のマイナースポーツもありますし、オリンピック競技でも多くの種目でそこそこ上位に食い込みます。
日本は多様性があり色んな楽しみがある国です。
その結果競技人口が分散してしまうのです。
それをサッカーに集中させれば日本はかなり強くなるでしょう。
特に野球選手が全員サッカーに転向すると勢力図は激変するでしょう。
しかしそんな社会では野球は衰退し大谷選手は生まれません。
それで良いでしょうか?
他には中南米のように「貧困かサッカー選手か」みたいなパターンもあります。
中南米のようにハングリーさが足りないとのたまう人もいますが、あちらではハングリー過ぎてサッカーの勝敗で殺人が起きたり、家族や選手が誘拐されたりすることもあります。
それって羨ましいか?
実は日本はめちゃくちゃ恵まれた国なのです。
恵まれているがゆえにサッカーの強さは現状から大きく変わることはありません。
はっきり言って社会を変える以外に突き抜けるほどの強化方法は無いと思います。
何かを得るためには何かを捨てなければいけません。
それを理解しておけばもっと気楽に楽しめることでしょう。
ちなみに海外でサッカーに本気になる国は落ち込み方がもっと酷いようです。
ラジオで聞きましたがドイツでは精神科医による「代表敗退で落ち込まない方法」の記事が新聞に載ったようです(笑)
それも大まかに書き記します。
・悔しい気持ちを表現する
抑え込むんじゃなく悔しいと外に向かって表現するとのことです。
まあ発散ですね。
・SNSから離れる
ドイツ人は反省会が好きだそうなのですがそれをやり過ぎるとネガティブさが増してしまうとのこと。
そもそもみんな素人ですし出口のない迷路に入り込むようなものですね。
・犬の世話をする
散歩でもして気を紛らわせるといいとのことです。飼っていない人は友達の犬を触らせてもらいましょうだって(笑)
・サッカーを楽しむ
代表も負けたし他国の試合を気楽に観戦することで純粋にサッカーを楽しみましょうとのことです。
本来の見方ですね。
さすがは精神科医という感じでこっちの方が参考になる人も多いでしょう。
ちなみに最悪だと思うのは韓国の対応です・・・。
このまま俯瞰で見ることができずにめり込んでしまうと日本もそうなる可能性はあります。
水かけたりバッシングすごい時もありましたからね。
日本は観戦マナーもいいし他国の応援も素直にするいい国民性だと思います。
残念ながら海外のサッカーファンは人種差別、暴動と結びつくこともあります。
そういう悪いところは見習わずに日本は日本の道を歩むんだと我が身を振り返りながらサッカーと向き合って欲しいと願っています。
ウクライナ関連で最近気付いたこと
ロシアによるウクライナ侵攻関連で最近気付いたことがあります。
と言ってもはてなブックマーク上の話題限定ですが。
どうやらみんなウクライナに関して飽きているようです。
ウクライナ関連のニュースでもうブックマーク数が伸びない。
つまり話題になってない、興味がないということです。
この戦争は出口も見えないし、日本では身近に感じることがないのでしょうがない部分もあるかもしれません。
ですがもう一つ気付いたことがあり、それは問題だと思います。
減ってきているはずのウクライナ関連の話題でもブックマーク数が多いものがあるのですが、それは何かというと「トランプ大統領がウクライナに関わった時のニュース」です。
そしてそのニュースに付くコメントはトランプ大統領への批判で溢れています。
これはどういうことかと言うと、本当はウクライナには興味がなくてウクライナの置かれた悲惨な状況をトランプ大統領を批判する材料にしているだけなのです。
これはえぐいぞ。
ウクライナに肩入れして正義側に立つフリをしてトランプ批判をしたいだけの人たちが何と多いことでしょうか。
そしてその人たちは正義側に立っているので一方的に攻撃する権利を持っています。
正義の剣を振りかざすことは快感を伴うので止めることはできません。
しかし冷静で賢明な人はまずこの問題の本質が何なのかを考えるべきでしょう。
アドバイスは何のためにするのか
社会人なりたての娘は帰ってくるとその日にあったことなどを私に話す。私はうんうんと聞いてる。そこにたまたま夫が帰宅して私たちの会話が聞こえると要らないアドバイスをしてくる。娘は嫌な顔をしていなくなる。話を聞いて欲しいだけだって娘が中学のころから何回も言ってるのに。アドバイスとか求めてないのよ。求めてる時はそう言うから。夫が会話に入ってくると空気が悪くなる。
娘さんにアドバイスをする旦那さんとそれを止めた方がいいと考える奥さんのツイート。
これはどの視点で話をするかによって変わってくると思います。
例えば一般論で話そうと思えば「男女差」で語ることもできると思います。
よく言われる「男性は解決を求め、女性は共感を求める」というやつです。
その視点で話そうとすると、男性は問題を解決しようとしているのに女性は態度を改めようとせずそれを放置して愚痴るだけ。愚痴を聞かされる身にもなって欲しい。という風に女性に対し批判的に話すこともできると思います。実際にブコメにもいくつかこういった意見がありました。
しかしこれは一般論という視点をずらした、外野が「話のネタ」で消費するものでしかありません。
まず問題の数の捉え方にズレがあります。
問題の数で言えば嫌な出来事があったのが一番目で、それに対して嫌な気持ちになったのが二番目です。
実は問題は二つあるのです。そのどちらかにフォーカスするかという点で既にズレが生じていたのですね。
時系列で言えば嫌な気持ちを持ったことが最新の問題なのでまずはそこからケアする必要があります。
じゃあ一番目の発端となる問題は放っておくのかという点については問題の本質を理解する必要があります。
この問題の本質は何なのでしょうか。この問題はどこで起きているのでしょうか。
それは夫婦間であり、親子間のものである「家族の問題」なのです。
その当事者としての視点でいくと重要なのは家族としての幸せになってくるのではないでしょうか。
その視点で捉えるならば、娘さんが嫌な気持ちになってしまうことが重要な問題であり、旦那さんはその発生点でもあります。
これは前述の一般論から照らし合わせると矛盾すら生まれます。
問題を解決するつもりのアドバイスが別の問題を生み出しており、しかも何回も言っているのに止めない、態度を改めようともせず続けてしまう。
奥さんの発言である「話を聞いて欲しいだけだ」というのは娘さんの気持ちを宥めるための方法、つまりアドバイスなのです。
実際には奥さんがアドバイスをしており、旦那さんはそれを聞き入れず問題を生み出しているという一般論からすると男女逆の行動であり、批判されるべきケースになるのです。
娘さんは外で悩むようなことが起きて、安心できる家へ帰って来る。そこで守ってくれる、味方になってくれるはずの親に打ち明けたらアドバイスを受けるということで自分が否定されたような気分になり、失望してしまうのです。
それが「嫌な顔」の正体です。
これだから女はとかを外野が言うような問題ではなく、家族としての幸せを考えるのならば奥さんのアドバイス通り娘さんの話をしっかり聞いて感情を受け止め、慰めることが初めに取るべき最善の行動でしょう。
娘さんが同じことで悩み、何度も同じことを言ってくるのならばそれはまた別の話ですが、その際も娘さんの気持ちを受け止め実行可能な方法を提案することが本当のアドバイスかと思います。
その時は何らかの支援も必要になってくるでしょう。アドバイス、発言には責任も必要になると思います。
その責任のない表面的で本質から逸れた議論は何の意味もないのです。
S N Sでの外野の発言はその最たるものでしょう。
まあこれはブーメランでもあるので、外野としてはこのご家族が幸せに過ごせることを願うだけです。
沖縄の言葉と違和感
「方言禁止記者会見」というバラエティ番組のコーナーが炎上しているとのことです。
琉球「方言禁止記者会見」に見る「普通の日本人」の植民地主義 - yktのブログ
沖縄では方言が禁止された時代が実際にあったのでその差別的な扱いを繰り返しているという批判でした。
初めに書いておくと僕は沖縄人ですがこの件が「差別だ」とも「そうではない」とも言いません。
そこには違和感があるとだけ言っておきます。
まずこの騒動で沖縄の人が不在のままな点に違和感があります。
当事者であるはずなのにその存在感はないまま賛否両論繰り広げられています。
しかしでは一体誰が当事者なのでしょうか。
出演者?沖縄人全体?
当の沖縄でも昔から沖縄の言葉をネタにした笑いはあります。
沖縄の人は自分たちの言葉と扱いが違うことをわかっていてその違和感を笑いに変えているのです。
沖縄の人も言葉をネタにしているからあの番組は問題ないでしょうか。
個人的にも沖縄方言の使い方について違和感を覚えた体験があります。
一昨年「薔薇とサムライ2」という舞台を観たのですが、その中で沖縄をモチーフにしているであろう島民の役がありました。
案の定沖縄の言葉を使ったのですが、それは元の言葉の意味とは違うダジャレ的な使い方でした。
そこにはかなり違和感がありました。リスペクトはなかったと思います。
自分の中に沖縄人としてのエゴを感じた瞬間でした。
この「沖縄人」とは一体何なのでしょうか。
あまりにも当然のことですが沖縄にもいろんな考えの人、属性がいます。
それをまとめることにも違和感があります。
沖縄出身の芸能人はよく沖縄をネタにすることがありますが、僕からしてみるとあまり沖縄っぽさを感じません。結構無理して言ってるように見えます。
例えばりゅうちぇるさんが沖縄出身だと知った時は驚きました。
というのも沖縄では生きづらそうだと思ったからです。
沖縄はマチズモ、ヤンキー文化的な面があるので彼のようなタイプは合わないことが多いのです。(ちなみに僕もそんなに合わない)
テレビでは無理して沖縄っぽさを出していたのではないでしょうか。
そうしていろんなことを押さえ込んだ結果苦しんでいたのかもしれません。
彼の私生活をネットで「典型的な沖縄の男らしい無責任さ」と言っている批判を見かけました。
その意見にはあらゆる偏見と無知が詰まっていると反論したいのですが、りゅうちぇるさんのことも「沖縄人」のこともよく知らない僕は反論が正しいという自信もありません。
沖縄は他の都道府県とは違う部分が大きいと思いますが、言葉以外に苗字もあります。
苗字を見ただけで沖縄の人だとわかります。
しかしそれは過去に日本風の名前を名乗ることを禁じられたという歴史の名残なのです。
差別的な取り決めが皮肉にも沖縄人としてのアイデンティティを守ることになっているのです。
yktさんのブログで書かれている
また琉球の人もそこに気づくことができないという恐るべき状況にある。
という部分に通じるかと思います。
そういった差別の歴史を知っている人達があの番組を批判しているのでしょう。
沖縄の人への扱いは割と気を使っている人が多いと思います。
しかし一番大きな本当の差別問題については常に放置されたままです。
それは米軍基地です。
基地問題について話そうとすると、中国の脅威が、安全保障が、地政学的に〜という意見が増え、だから沖縄には基地が必要なんだという結論になってしまいます。
しかしそれこそが沖縄を差別しているからこそできることなんだと気づいて欲しいです。
同じ日本だと思っていたならばその領土を自ら開け渡そうとはしないでしょう。
琉球侵攻、沖縄戦、方言札から基地問題まで全てひと続きの差別の歴史があります。
この番組についてに戻りますが、沖縄の人も概ね面白がる人が多いのではないかなと思います。(ちなみに僕の父親は子供の頃学校で方言を話したら先生に殴られたそうですが、僕の時代は当然そんなことはなく世代間でも分断があります)
そしてその笑いは自分たちが置かれている環境の異質さが浮き彫りになる違和感が生み出しているのではないでしょうか。
自由と多様性
「多様性」
近年重要性が増し続けている言葉です。
自由で闊達な社会。そこではいろんな人の生き方が許容されている。
そんな理想の社会のキーワードであると思います。
日本に従来からすでにある多様性について考えてみると、果たして自由は多様性を生み出す素晴らしいだけのものなのだろうかと疑問が湧きました。
日本にも現在多様性がないわけではありません。
その多様性には地域による文化の違いがあると思います。
北から南に長い日本で土地土地の文化を比べると同じ国でも差異があります。
それは既存の多様性と呼べないでしょうか。
そしてその多様性は様々な規制という不自由によって生み出されたという、現代の多様性という言葉から想起される印象からはかけ離れた面があると思います。
例えば食文化。日本は各地に名物の食べ物があります。
それは物流の規制によって生み出されたものです。
例えば山側の土地と海側の土地では採れる食材が違うので料理も当然変わってきます。
しかも冷蔵技術のない過去であれば近い場所で消費するしかありません。
そうやって土地に縛られることで名物料理は発展していったはずです。
さらに人の移動の制限という人権の規制もあります。江戸時代において藩とはそれぞれ別の国であり一般人の自由な移動はできませんでした。
これは鰹節の歴史を調べた時に感じたことです。
鰹節を作る製法は機密事項でありそれを別の藩へ伝えた職人はその罰として故郷へ帰ることが許されなかったということです。
鰹節がいくつかの製法があったのはそうやって産地の藩がそれぞれ秘密にしていたからなのです。
近代であれば国が指導員を派遣していいものをどこでも作れるようにして製法が同じになってしまうのではないだろうかと考えてしまいました。
その他沖縄人の僕が感じることには沖縄の苗字があります。
沖縄の苗字は県外の人と比べると独特なものが多く、苗字を聞くと沖縄の人(またはルーツ)であるとわかります。
それも日本の多様性の一つに数えられるのではないでしょうか。
しかしその独特な苗字は琉球が薩摩藩に侵略された後に日本風の苗字を名乗ることを禁じられた不自由の名残でもあります。
表向き琉球の独立を装って中国との交易を続けさせるための工作でした。
そして何と皮肉なことにその差別的な法律が独特な苗字を現代に紡ぐことになり、沖縄の人たちにとってはアイデンティティにもなっているのです。
現代へ戻り多様性について考えてみると、それは声高に叫ばれていて、絶対にいいもので受け入れるべきだというような押し付けがましさを感じる人が多いように思われます。
グローバリズムという自由は巨大な商業チェーンを発展させ地域的な小規模文化を消滅さえさせてしまっているでしょう。
全国どこにでもマクドナルドやスターバックスがあるのは多様性でしょうか。
以前から地域の発展は「東京のようになること」という紋切り型の価値観があるように思えます。
地方へ行った時の地元の人の「ここには何もないでしょう」という謙遜のような言葉にはその意識が隠されていないでしょうか。
既存の多様性は規制による分断が生み出し、現代の多様性は融合による画一性を生み出す。というこれまでのイメージとは逆の側面もあると思います。
しかしその多様性が認識できたのはやはりそれを知ることができた自由があるからです。
創造と破壊は今までも行われてきたことであり、自由はこれからも既存の多様性を破壊しながら新しい多様性を生み、広めていくことでしょう。
その時重要なのは「自由や多様性ならばなんでもいいわけではない、それは人を幸福にさせるか、人権を高めるものであるかを第一に考えなければならない」ということです。
カリフォルニアロールに対する誤解
海外の料理に関する記事に書かれるブックマークコメントで、カリフォルニアロールが引き合いに出されることがある。
大体は日本人の感覚からしたらあれくらいの違和感なんだろうとか、寿司をわかっていないアメリカ人が作った変な料理みたいな内容が多いと思う。
嘲笑、揶揄、拒絶といったネガティブな印象がほとんどじゃないかな。
でもはっきり言って全部間違っているんですけどね。
まずカリフォルニアロールはアメリカのカリフォルニアで作られたんじゃなくカナダで生まれた寿司だし。
そしてアメリカ人でもカナダ人でもなく日本人が作り出した新しい寿司なんだよね。
という風に前提が全部間違っているからカリフォルニアロールに関して思い浮かぶイメージ、気づきだと思ってるその全てが間違っているんですわ。
その勘違い見てて恥ずかしくなるよ。
勘違いを元に外国人の感覚を揶揄する人とか逆にバカっぽいもんね。
あれは日本人が寿司を異国の地の素材でなんとか現地の人に食べてもらおうとした創意工夫の結晶なんだよ。
ということで知らなかった人は認識改めてください。
日本の成長速度を上げる
よくニュースで先進国の中で日本だけ成長率が低いという記事を目にします。
ポリコレ、環境の意識面でも日本だけ遅れているというふうに指摘されることが多いと思います。
ではどうやったら改善されるのかという方法の一つとして「元号の使用をやめる」を提言します。
契約書、各種申込書で日付の記入欄があると基本的に年号を書くことになると思います。
そうすると今が何年なのかよく分からない時が多々あります。
この記事を書いている時は令和5年ですが令和が始まる前に発行された免許証などの有効期間は平成のままです。
平成35年まで有効って言われてもいつか分からないよ。って今年だった!あぶね〜。
始めから西暦で書けば全てがスムーズになるので色々な手続きが効率的になるのではないでしょうか。
しかし、それよりも効果が大きいと思うのは「意識が変わる」という面です。
古い物事の考え方をよく「昭和的だ」と表現し、新しい意識を目の当たりにすると「これが令和か」と思うことがよくあるのではないでしょうか。
ネットではよく見かけます。
そのように日本人は年号で意識が大きく変わるのではないかと思います。
それでは海外、主に西暦を使う西洋社会ではどうなのかというとそれは「10年単位」だと思います。
これはツイッターやインスタ等に書き込まれる海外の人のコメントを読むと分かるはずです。
我々日本人が昭和、平成で語るようなことを80s,90sとかで表現しています。
日本では時代によって元号が何十年も続きますが、西洋社会では10年で区切りをつけ、意識もそれに従って進歩しているように思えます。
その証拠に10年ごとを区切る"Decade"という言葉すら存在します。
日本人が大きく意識を変えるのに30年か、またはいつになるか分からないところを海外の人は10年で必ず区切りをつける。
そうやってどんどん進歩していったから今あらゆる面で大きく差をつけられているのではないでしょうか。
というわけで西洋的な進歩速度を得たいならば元号の使用をやめることは一つのきっかけとして有効なのではないかと考えます。
もちろんそれを認識した上で「いや日本は独自の伝統を守っていくんだ」という意気込みがあれば話は別なのですが、その発想に至る人は少なくただ慣習としての年号に書類を書くときにだけ煩わされながら生きていくことになるのでしょう。
ところで世界では独自の年号を使う国も結構あってそれを知ると世界の複雑さも一瞬垣間見ることができると思います。