「多様性」
近年重要性が増し続けている言葉です。
自由で闊達な社会。そこではいろんな人の生き方が許容されている。
そんな理想の社会のキーワードであると思います。
日本に従来からすでにある多様性について考えてみると、果たして自由は多様性を生み出す素晴らしいだけのものなのだろうかと疑問が湧きました。
日本にも現在多様性がないわけではありません。
その多様性には地域による文化の違いがあると思います。
北から南に長い日本で土地土地の文化を比べると同じ国でも差異があります。
それは既存の多様性と呼べないでしょうか。
そしてその多様性は様々な規制という不自由によって生み出されたという、現代の多様性という言葉から想起される印象からはかけ離れた面があると思います。
例えば食文化。日本は各地に名物の食べ物があります。
それは物流の規制によって生み出されたものです。
例えば山側の土地と海側の土地では採れる食材が違うので料理も当然変わってきます。
しかも冷蔵技術のない過去であれば近い場所で消費するしかありません。
そうやって土地に縛られることで名物料理は発展していったはずです。
さらに人の移動の制限という人権の規制もあります。江戸時代において藩とはそれぞれ別の国であり一般人の自由な移動はできませんでした。
これは鰹節の歴史を調べた時に感じたことです。
鰹節を作る製法は機密事項でありそれを別の藩へ伝えた職人はその罰として故郷へ帰ることが許されなかったということです。
鰹節がいくつかの製法があったのはそうやって産地の藩がそれぞれ秘密にしていたからなのです。
近代であれば国が指導員を派遣していいものをどこでも作れるようにして製法が同じになってしまうのではないだろうかと考えてしまいました。
その他沖縄人の僕が感じることには沖縄の苗字があります。
沖縄の苗字は県外の人と比べると独特なものが多く、苗字を聞くと沖縄の人(またはルーツ)であるとわかります。
それも日本の多様性の一つに数えられるのではないでしょうか。
しかしその独特な苗字は琉球が薩摩藩に侵略された後に日本風の苗字を名乗ることを禁じられた不自由の名残でもあります。
表向き琉球の独立を装って中国との交易を続けさせるための工作でした。
そして何と皮肉なことにその差別的な法律が独特な苗字を現代に紡ぐことになり、沖縄の人たちにとってはアイデンティティにもなっているのです。
現代へ戻り多様性について考えてみると、それは声高に叫ばれていて、絶対にいいもので受け入れるべきだというような押し付けがましさを感じる人が多いように思われます。
グローバリズムという自由は巨大な商業チェーンを発展させ地域的な小規模文化を消滅さえさせてしまっているでしょう。
全国どこにでもマクドナルドやスターバックスがあるのは多様性でしょうか。
以前から地域の発展は「東京のようになること」という紋切り型の価値観があるように思えます。
地方へ行った時の地元の人の「ここには何もないでしょう」という謙遜のような言葉にはその意識が隠されていないでしょうか。
既存の多様性は規制による分断が生み出し、現代の多様性は融合による画一性を生み出す。というこれまでのイメージとは逆の側面もあると思います。
しかしその多様性が認識できたのはやはりそれを知ることができた自由があるからです。
創造と破壊は今までも行われてきたことであり、自由はこれからも既存の多様性を破壊しながら新しい多様性を生み、広めていくことでしょう。
その時重要なのは「自由や多様性ならばなんでもいいわけではない、それは人を幸福にさせるか、人権を高めるものであるかを第一に考えなければならない」ということです。