先日交通事故の現場を目撃しました。
倒れている方は見るからに助からないだろうという状態で、僕はその光景に非常に大きなショックを受けました。
2日後その場所を通ると献花されていました。僕はしばらくその事ばかり考えてしまいました。
都会では人の死を知る事が多いです。
人口が多いので当たり前なのでしょう。日常的に報せがあり、そして毎回感覚の麻痺した人々がいる事に驚き、やるせない気持ちになってしまいます。
沖縄から東京に出てきた当初の頃に駅で電車を待っていると、人身事故で到着が遅れるというアナウンスがありました。
僕はそれがとても不思議でした。線路の上しか走らない電車がなぜ人と事故を起こすのだろうかと。沖縄には電車がないのでわからなかったのです。
友人に尋ねると「飛び込みだよ」と教えてくれました。
それは日常に対する意識を大きく揺るがす衝撃的な事実でした。
この目の前に横たわる線路の先で誰かが命を落としたのです。
新聞やニュースで事件や事故を見るよりもずっとリアルな感覚でした。
ですが誰一人として動揺しませんし、ツイッターには「まじ最悪。迷惑かからないところでやれよ」という呪詛に満ちたつぶやきで溢れかえります。
すぐ近くで人の命が消えたのに重要なのは自分が電車に乗れるかどうかなのです。
井上陽水のこの曲はその事をよく表しています。
人身事故のアナウンスは僕たちの良心に対する警告です。
同じ時間を生きていた人が命に換えて発した、社会への最後の訴えなのです。
社会の歪みが彼らへ重くのしかかりその苦しみに耐えられなくなったのです。
僕たちは彼らの苦しみを汲み取り、その悲劇が繰り返されないようにしなくてはなりません。
それができなければ平和への道は固く閉ざされたままになってしまいます。
政府に対し怒りのデモ行進をする前に僕たちはこの社会でやるべき事があります。
すぐ近くに救いを求めている人達がいます。
もしも放置するならばいつかは自分が彼らと同じ境遇に陥り、助けもない絶望の最後を迎えるかもしれません。
僕たち全員が互いを尊重し幸福になるようにこの社会を変えようと努力するならば、それは自然に平和な世界を造る事に繋がるのです。
都会では人の死が、苦しみが多く存在します。
戦争が起こらなくてもそこらじゅうで人が命を落としています。
僕もその事にやっと気付きました。そして振り返ってみると今まであまりに多くの犠牲がありました。
他人のありふれた死への感覚を失わずにしっかりと見つめなければいけません。
平和を叫びたいならばまず道ばたの花に目を向けましょう。