こないだのエントリーにブックマークかなり付きました。
前回は文章力の無さから誤解を与えてしまったのでそこは説明しておくべきだと思いました。
「芸術を勝ち負けと言う時点で本質的じゃない」みたいな意見をいくつか頂きました。
それは全くもって正しい事です。僕もそう思います。
芸術や文化は「勝ち負け」や「優劣」は決められず、「違い」を認識する事しかできません。
芸術において日本は観念的で西洋は具体化でした。
(浮世絵について論じたのでその時点においてめっちゃざっくり言うと)
そう向かわせた意識が両者の芸術の本質です。
画材や技法はそれを支える物でしかありません。
ではなぜ日本が負けると表現したのか。
皆さんは浮世絵の展示に行った事はありますか?
僕は何度かありますがそこでは「浮世絵が西洋の芸術家に影響を与えた、高く評価された」と書かれたパネルが会場に掲げられることが多々あります。
近代西洋芸術における日本の影響を考察する企画ならそれは納得できます。
ですが浮世絵のみの展示の時にそれを掲げるのです。
それは西洋の視点から見た日本芸術の素晴らしさという価値観によって浮世絵を評価しようという姿勢にほかなりません。
自己の感性に働きかける芸術の評価を他者に委ねているのです。
それは芸術の本質ではありません。
しかも芸術に関わる人達がそれをやるなんてね。
西洋の評価に重きを置いた人々への皮肉を込めて「日本は負ける」と書きました。
日本人こそが日本を評価していないのです。
(まあ国芳は西洋絵画を観て「これこそ絵なり」って言って取り入れてたけど)
「わーゴッホもマネも浮世絵描いてるなんて日本すごいねー^^」みたいな事です。
確かに浮世絵は近代西洋絵画に多大な影響を与え発展の一つのきっかけとなりました。ですがそれは「きっかけ」であり世界観の「全て」ではありません。
それ以前に西洋では写実表現を突き詰めていく中で徐々に人間の内面へと静かに向かっていたのです。
そして出会った浮世絵の「精神を表現する」という本質を目の当たりにした西洋の芸術家達は大きな驚きと、そして自分達が目指していたことへの確証を見出したことでしょう。
これからあるべき芸術の形を見抜き自らの血と肉としたのです。
そうやって過去や異文化の世界観を取り込みながら抽象、キュビズム、シュールレアリスム、現代芸術への変遷を遂げました。(写真の影響も大きいですね)
フェルメールとピカソを見比べても似ても似つかないし繋がりなどなさそうに思えるかもしれませんが、確かに一つの大きな流れの中にあります。
それが西洋の芸術の歴史なのです。
一方日本は歴史や伝統を古い劣った物として自ら捨て文明開化と称し西洋一辺倒の政策、思想へと突き進みました。
それまで日本人が描いてきたのは精神的な世界でしたがその本質を見失い、芸術面でも西洋を目指します。
前回も書きましたが自己への客観性が欠如した視点では他者の本質も見抜く事はできません。
単に写実性の新鮮さに目を奪われただけです。
そこで日本人が古来より持っていた芸術への意識は失われ歴史は分断されました。
日本の伝統、芸術への理解も無く、もちろん西洋の歴史の流れの上にもない日本の現代社会の景色が即物的に見え「ダサい」と評したのはそのためです。
現代でも村上隆に代表されるような日本の伝統芸術を踏襲して現代的に進化させたアーティストはいます。
しかし彼らが取り入れたのは技法だけではなく視点です。
そこがわかっていない人は多いように感じます。
その他に歴史の血が通った日本的文化は漫画・アニメかと思います。
浮世絵は当時は芸術と言うよりも大衆文化だしね。
そもそも「芸術」という概念が輸入品だったりするわけですが。
ところで思い直したこともあります。
日本は元々歴史の分断が起こりやすいという性質も持っていたのではないかということです。
(続く。かもしれないし続かないかもしれない。続けないとタイトルが生きないけど)
追記
↓違うテーマですがここで続きとなる考えを書きました。