安倍首相の「そもそも」の用法による論争が起きていますが、僕は何かに似ているなと感じました。
そして思い出したのが「日本死ね」騒動でした。
匿名の「日本死ね」という発言が物議を醸した出来事でしたが、本質的な問題は「待機児童問題」であったにもかかわらず言葉の使い方や愛国心の問題へとすり替えられることになってしまいました。
そして本当の問題であった待機児童は置き去りにされたまま「日本死ね」の衝撃も今や落ち着き誰も話題にはしません。
「そもそも」の件では与党が苦しい弁解(もはや曲解)をしているように見えていますが与党としてはこれでいいのです。
言葉についての議論を引き延ばすことに連れ内容は徐々に難解になっていきます。
しばらくすると国民も興味を失い考えることをやめるでしょう。
自分が興味のないつまらない追求を続ける野党に対し不満の矛先が向くばかりです。
そういった状態に持ち込めばもう与党の勝ちです。
堂々と本質的な部分である「共謀罪」を採決することができるでしょう。
そうですそもそも共謀罪についての議論をしなければならないのです。
野党は法律の適用条件を明確にするために言葉について厳密に議論しなければいけないと考えているのかもしれません。
しかしその議論の最中に国民は「飽きて」しまうのです。
その時野党に対して不信感を持っていれば、もうどんな法律であろうが成立してしまうでしょう。
森友学園問題もほとんどの人が飽きているので以前より報道されなくなっています。
しかし問題が起きた事実は変わらないし、関わった人たちは未だに国の中枢にいるのです。
結局は国民のせいと言うこともできるのですが、その性質を見抜いて政権側が利用しているのかもしれませんね。