いつも聞いているラジオ番組で、保育園開園が近隣住民の反対によって断念させられたニュースを取り上げていました。
その番組では騒音に対する反対であるという見解でした。
ここ数日「反対理由は騒音じゃなくて道路事情だ」という、主旨の取り上げ方に対する疑問を呈したブログも目にしました。
僕はそれらは「毒矢のたとえ」にあるように重要ではないことに思えます。
それよりも僕が心配になってしまったことは、反対した近隣住民に対する批判内容がほとんど同じであることです。
「子供の声は騒音ではない」
「日本は不寛容な国になった」
「反対派は身勝手」
ラジオ番組に寄せられたリスナーのツイートからですが、他のメディアでのコメントもほとんどこれと一緒です。
う〜ん・・みなさん保育園の隣に住んだことがあるのでしょうか?
そうでなければ想像力や共感力が足りないかもしれません。
はっきり言って子供が集団で騒ぐとうるさいですよ。
自分がその声や音に四六時中接したらどうなるだろうと考えてみるべきです。
この単一思考はやべーぞ。
他者への共感がなければ自己の意識を過剰に正当化してしまう場合があります。
子供への理解がある自分は正義で反対派は悪だと言わんばかりに暴走し、近隣住民への嫌がらせや脅迫などに発展しないか不安になってしまいます。
反対派だった人たちが子供の声を騒音だと感じなくなるにはどうすればいいのか。
子供たちが楽しく安全に過ごせる環境作りはどうしたらいいのか。
待機児童問題を解消しその親が安心して働けるにはどうしたらいいのか。
全ての人の立場を想像してみてから、全てが上手くいく方法を考えるべきです。
そしたらめちゃくちゃ難しい問題だってわかります。
あちらを立てればこちらが立たない。
難しいってことだけがはっきりとわかります。
でも今までのようにどっちが悪いと決めつけていたことに対しては反省して、簡単に他人を断罪することはなくなるかもしれません。
それが誰に対しても優しい社会への第一歩なのだと思います。