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今を生きる

毒矢のたとえ

仏教に「毒矢のたとえ」という話があります。

毒の塗られた矢が飛んできて刺さった時に

「これはどんな種類の毒なんだ?」

「この矢は何でできているんだ?形状は?」

「どこから飛んできたんだ?」

「誰が矢を射たんだ?」

という事を気にしている内に手遅れになってしまうという話です。

仏教はただ一言

 

「矢を抜けよ」

 

と言います。

 

原因を取り除けとはっきりと指摘するのです。しかし世間では原因を放置したままその表面上で、自分の考えこそが正しいと主張し合う事がよく見受けられます。

 

mainichi.jp

 

難民を貶す目的のイラストについて「差別だ」「表現の自由だ」「SNSの対応がどうだ」「SEALDsがどうだ」とかネット上で盛り上がってますけど

 

 

 

これって難民を助ければいい話でしょ?

 

 

 

そこで言い合って難民問題解決するの?問題を解決する為に議論しようよ。

 

 

 

他にも最近駅のホームでベビーカーに乗った赤ちゃんが男に殴られるという事件がありました。父親がその男を取り押さえたそうですが、僕はよくそんな余裕あるな〜と思いました。

 

 

だって子供の無事を確認するのが先決でしょ?

 

 

見て大丈夫そうだったとしても病院に運ぶ事に神経を使うべきでは?その時の状況がわかりませんが、きっと赤ちゃんの命に別状が無い事がその場の一瞬で判断できたんでしょうね。(実際無事ではありました。よかった)

そしてその話を受けてネット上では「団塊の世代はろくなもんじゃない(犯人が60代)」「ベビーカーで電車に乗られるのが迷惑」「そうゆう心が狭い人がいるから日本は少子化になるんだ」って、何の話?

まず子供を助ける。そしてその後は、そうゆう事件が起こらない様にするにはどうすべきかを議論する。こうゆう流れであるべきじゃないの?

 

 

 

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まったく世の中ってのはよ〜。ん?ちょっと頭痛い気がする。