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今を生きる

我々はどうやって肉食を肯定しているのか

近年海外では動物由来の食材を一切摂らないヴィーガンが増えており、もはや一過性の流行ではなく生き方として定着しています。

日本でも少しずつ増えてきていてこれから外食産業でも対応メニューや専門レストランの増加が見込まれ、その存在がもっと大きくなることでしょう。

そこで議論になるのが「肉食は悪か」ということです。

ヴィーガンの中でも動物の命を奪うことの邪悪さをアピールする人と、肉食を愛する人との間での対立は一層深まることと思われます。(以下ヴィーガンを動物愛護派とみなして記述します)

 

「生き物の命を奪うことはよくない」

 

これはなるほどいかにも正しい、美しい言葉に思えます。

では動物を殺して肉食をする我々はどうやって肉を食べることを肯定しているのでしょうか。

一つには宗教があります。

いくつかの主要な宗教で、動物は人間が食べるために神が与えてくれたという考え方が共通してあります。

それぞれの宗教の信者はその教えに従って肉食をします。

また食べてはいけない動物もある場合も多いので信者はその動物を食べませんが、その動物を食べる他の文化圏と争いが起こる場合があります。

犬、猫、イルカ、クジラがその対象となることが多いようです。

日本においては信仰心の自覚がない人が多く自分は無宗教だと思っている人が多いのですが、面白いことにその場合でも自由に肉食が許されているわけではありません。

日本の場合は「感謝する」ことによって肉食を肯定しています。

生産者、自然、そしてその動物の命に感謝することで肉食を肯定しています。

しかしどちらの場合もよく考えてみると矛盾が生じてしまわないでしょうか。

宗教によって動物の命に差があることは正しいのか。

感謝したら殺されることを相手が受け入れられると思えるのか。

ありがとうって言いながら刺してくる人いたらサイコパスですよね

殺される側からしたら全く意味のない言葉であり自己満足です。

「生きるためには他の命を奪わなくてはいけない。植物だって生きているんだ」と対象を拡大することで肯定しヴィーガンへの批判とする人もいます。

我々はどの立場においても肉食をする際に「言い訳」をしているのです。

ではなぜ言い訳をしなくてはならないのか。

それは生き物を殺すことに罪悪感があるからなのです。

実は肉食をする人も生き物を殺すことは悪いことだと思っているのです。

人間は進化によって他の動物よりも高い共感性と理性を持っているので他の種族といえど命を奪うことに抵抗を感じるようになっています。

だから言い訳をしなくては肉を食べられないし、殺す場面を隠して見えないようにしなくてはいけません。

見たら可哀想だという感情が生まれてしまうからです。

「犬猫を食べないのはなぜなのか」という問いにきちんと答えられる人がいないのも「可哀想」だと認めたくないからです。

自分が命を差別していることを認めたくないからではないでしょうか。

現代は人類史上最も自由で人権が保障された生活を送れる人が多い時代だと思います。

理性も現代人が一番先進的だと思います。

そのため残酷な場面は隠すことで考えないようにするという構造が蔓延しています。

(肉食もそうですが人間同士の戦争、貧困などの悲劇も)

ヴィーガンは目を逸らさず思考停止をやめ、他の動物の命を奪うことはよくないという事実に改めて気付いた人達だと思います。

これから私たちは肉食の罪悪感と向き合うことが多くなるでしょう。

その時あなたはそれを指摘した人間に対して怒りを覚えるはずです。

そして自分が正しいという肉食は問題無いと主張するでしょうが、それはどこか自分に言い聞かせることになっていることに気付いてしまうかもしれません。

 

 

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